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  • 執筆者の写真Doctor Tab@cho

ルーツ・レゲエ・ラジオの変遷からの〜

更新日:2020年4月18日

Dread at the Controls, Dec 1978 - Mikey 'Dread' Campbell “Here’s a recording of the legendary “Mikey Dread At The Controls” radio show. It was recorded Christmas 1978 and it was one of his groundbreaking shows broadcast on JBC Radio, Jamaica.”


「マイキー・ドレッド (Mikey Dread) としてよく知られるマイケル・ジョージ・キャンベル(Michael George Campbell、1954年6月4日 - 2008年3月15日[1])はジャマイカ出身の歌手、プロデューサー、DJ。ジャマイカで初めてレゲエだけを流すラジオ番組『ドレッド・アット・ザ・コントロールズ』を企画し、DJを担当した。(Wikiより抜粋)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/マイキー・ドレッド





レゲエのラジオというと話長くなっちゃうんですが、ジャマイカでもマイキー・ドレッドは「レゲエ・ラジオ」の開祖でその後、英国でも「レゲエ・ラジオ」の開祖、でアメリカに渡って「レゲエ・ラジオ」の開祖やったという凄い人です。どういうことか?というと当時ジャマイカですらラジオは「富裕層の所有物」であり「白人主導でアメリカ音楽」しか流れない。そこに初めて地元ローカルの「レゲエ」の番組作ったのがマイキー・ドレッド。恐ろしいことに70年代半ばまで「ジャマイカではラジオ電波でレゲエが流れて無い」わけです。でも、その「ラジオで流してもらえない」が故に皮肉にも「じゃあ俺がローカル・ステーションだ!!」ということでサウンドシステムが方々の地域で発達した。という経緯があります。その後、ラジオでもマイキー・ドレッドの功績でレゲエが流れるようになります。ジャマイカでは「アイリーFM」が有名ですね、英国ではBBCにレゲエ番組持ってたデビット・ロディガンが有名です。


でも実はレゲエはラジオの場合 ジャマイカより英国が先に流していたんです。

「どんな音楽スタイルでも、世界中に広まるとは限らない。たとえばソカは、イギリスのポップス・ラジオでは滅多に聞くことができない。またバングラがアメリカで大人気になったことは一度もない。かなりメインストリームの音楽ジャンルであっても、国外では必ずしも受けがいいとは限らない。イギリスのインディーズは、アメリカではカルト的なファンだけが聴いている。逆にカントリー・ミュージックはアメリカでは何十年にも渡って盛り上がっているが、イギリスではさっぱりだ。しかしカリブ海に浮かぶたったひとつの島から生まれた音楽が、世界中でとてつもない人気を集めるようになった。つまりレゲエ・ミュージックである。レゲエは、そこら中に広まった。レゲエということを意識しないまま、レゲエを耳にしていることさえ、今では普通のことだ。(特集:レゲエが世界中のジャンルに与えてきた歴史と見過ごされがちな影響抜から粋)」 https://www.udiscovermusic.jp/stories/one-love-reggae-music-inspired-world


「プリンス・バスターに影響を受けた非ジャマイカ人アーティストはニッキー・リーだけに留まらなかった。プリンス・バスターの「Big Five」は、イギリスではほとんどラジオで放送されなかったが、それでも数千枚のシングルが売れる人気曲になっていた。この曲にヒントを受けた白人のレゲエ・ファン、アレックス・ヒューズは、1970年代初期に歌手としてのキャリアを築き上げた。ヒューズは、また別のプリンス・バスターの曲にちなんだ芸名ジャッジ・ドレッドを名乗り、「Big Six」や「Big Seven」といった曲を発表。そうしたレコードは、口コミの宣伝で人気が広がり、全英チャート入りを果たした。さらにはこのヒューズの芸名がヒントとなり、コミックのキャラクター、ジャッジ・ドレッドが生まれた。そう、レゲエはコミック作品『ジャッジ・ドレッド Mega-City One』にも影響を与えているのである。(特集:レゲエが世界中のジャンルに与えてきた歴史と見過ごされがちな影響抜から粋)




「70年代中期にロンドンのパブ・ロック・バンドでレゲエ・ミュージックを多少演奏した白人はイアン・デューリーだけではない。リー・コスミン・バンドやブリンズリー・シュウォーツのようなグループもレゲエを少々取り上げていたし、GT・ムーア&ザ・レゲエ・ギターズのようにレゲエを本格的に追求していた例もある。こうした通好みのルーツ回帰のパブ・ロック勢とは別に、当時の有名バンドもレゲエ・ミュージックに手を出していた。それはレッド・ツェッペリンだ。 彼らは1973年のアルバム『Houses Of The Holy』で「D’yer Mak’er」というレゲエの曲を発表している(曲名は「ジャマイカ」をもじったもので、「ジャ・メイカ」と発音する)。この曲は、ハード・ロックを聞きたがっていたツェッペリンのファンの一部をいらだたせることになった。(特集:レゲエが世界中のジャンルに与えてきた歴史と見過ごされがちな影響抜から粋) https://www.youtube.com/watch?v=8q4lZ8wpGMM&feature=emb_logo


こうした初期のスカ、ロックステディ、スキンヘッド・レゲエやアーリィ・レゲエもBBCなどのメジャー放送局で60年代から流れていた。その理由に、ジャマイカ移民の多い英国では需要が存在し「レゲエ」自体はクリス・ブラックウェルとアイランドレコード、ブラックウェルがサポートしたデューク・リードのトロージャンがメインで半分メジャー・クラスのレコード配給をし、他のアメリカのリズム&ブルース同様にラジオから流れていたからです。でも、極めて独特なパラダイム・シフト思想である、ラスタファリズムに根ざしたルーツ・レゲエが日本ではほぼ理解されないのに、英国で浸透したのは別の理由があると思う。アイランドのボブ・マーリーはロックとして聞かれていたし、その詩の内容はラスタファリズムに根ざしてはいても「もっとポピュラーな視点」だったからです。なので「極めて独特なパラダイム・シフト思想である、ラスタファリズムに根ざしたルーツ・レゲエ」の奥にまで、特に音楽表現の独自さは「届かないリスナーもいた」はずです。そうした意味でRoots Reggaeに特化すると、最初にプログレッシブ・ロックとしてラスタファリ・バンドの独自な演奏に注目したのはなんと英国のプログレ・レーベルだったヴァージン・レコードなんです。





the twinkle brothers & sir lee - free africa - 12 inch - virgin front line 1979 reggae stepper https://www.youtube.com/watch?v=L53Ox9dH18E


ヴァージンの「フロント・ライン・シリーズ」でのルーツ・レゲエのリリースが、英国ロック、後のパンク・ニューウエイブ・ムーブメントの「爆発」に与えた影響は絶大でした。 https://www.youtube.com/watch?v=zuItT_sP06A


























そしてもう1人、英国でルーツ・メッセージの楽曲を積極的に取り上げた人がいます。BBCで番組を持ちパーソナリティーをしていたジョン・ピールです。ルーツ・レゲエの独特な世界観を最初にラジオの「電波」に乗せたのは、実は英国の「パイレーツ・ラジオ」海賊放送だった。そしてその流れを集約し、積極的にBBCでレゲエを取り上げ続けたのはジョン・ピールなんです。 「ジョン・ピール(John Peel、本名ジョン・ロバート・パーカー・レイヴンズクロフト、1939年8月30日 - 2004年10月25日)は、イングランドのラジオ・パーソナリティー、DJである。1967年からBBCのラジオ1において『ピール・セッションズ』という番組を持ち、世界中の最先端の音楽をかけたことで知られている。『100名の最も偉大な英国人』において、第43位に選出された(wikiより)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・ピール


BBC Radio 6 Music John Peel




1967年です。ジョン・ピールが英国音楽に与えた影響は「絶大」で、ルーツ・レゲエをヴァージンのリリースと相乗効果的に取り上げていくことで、英国のロックファンに深く浸透させた。













BLACK SLATE Kid Jensen 19th August 1982


BLACK ROOTS John Peel 7th November 1983








THE TWINKLE BROTHERS John Peel 23rd September 1981




英国で「なんであんなにルーツ・レゲエがメジャーであるのか?」に功績があるのはヴァージン・レコード、ラフトレード・レコード、そしてBBCのジョン・ピールによるところが大きいと思います。特にラフトレード・レコードはヴァージンのメジャー化で表面化していくレゲエが置き去りにしようとしていた「極めて独特なパラダイム・シフト思想である、ラスタファリズムに根ざしたルーツ・レゲエ」の音楽性の独自さに注視し、その視線の影響は同レーベルからリリースのオルタナティブなバンドに深い影響を与えました。でもプログレ、ニューウエイブのムーブメントが去るとき「音楽としての」ルーツ・スタイルは衰退します。レゲエはダンスホールの興盛と共に残るんですが「極めて独特なパラダイム・シフト思想である、ラスタファリズムに根ざしたルーツ・レゲエ」が薄れていく、そしてラジオでもルーツ・レゲエが流れなくなるんです。1984年が大きな起点だと思う。その時、ジャマイカ音楽「だけ」のレゲエとは袂を分けて「原点回帰」のローカル・ステーションへの回帰からルーツ・レゲエを復活させるべく自身のサウンドシステムを前面に打ち出す男が現れます。

Jah Shaka Sound Systemです。


Jah Shaka Radio Session Kiss



ジャーシャカは英国のローカル局KISS FM UKで番組を持ち、同コンセプト「極めて独特なパラダイム・シフト思想である、ラスタファリズムに根ざしたルーツ・レゲエ」の番組を放送開始します。そのスタイルはマイキー・ドレッドのスタイルを踏襲したジャマイカンスタイルでありながらサウンドシステムでやっているレコードは回しながらも「裏面のダブをかけながら歌も歌う」という独自なスタイルです。

Jah Shaka Radio Session Kiss FM 1994 Tape one side a https://www.youtube.com/watch?v=0gWftGCejDM


からの〜

俺も一時期、East Jah RadioというのをNYのRoots Reggae Web Radio Stationでやってたことあります。それとは違いますが、Lick A Shot Soundに加入する前、川崎住んでる頃、桝形所羅門神社”Jah East Meditation"というサウンドやっててRadio Rub A Dub Styleやってます。どういうことか?というと気ままにレゲエのレコード回しながらMC入れたり自作の歌を歌ったりする「少し変わったライブ・スタイル」ですね。Mikey 'Dread' Campbellの影響を受けてますが。レコードは回しながらも「裏面のダブをかけながら歌も歌う」という独自なスタイルはJah Shakaのスタイルの影響が強いです。 https://www.mixcloud.com/jah_eass_t/枡形所羅門神社rub-a-dub神楽2017/





























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