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日本でルーツ・レゲエをやると言うこと〜その2

  • 執筆者の写真: Doctor Tab@cho
    Doctor Tab@cho
  • 2020年4月18日
  • 読了時間: 9分



今回は「史観」を掘り下げて、「日本でルーツ・レゲエをやると言うこと」を自分なりに考えてみました。まず日本建国について。天皇というのは天智までは「百済人」です。「九州南部から瀬戸内海を渡って森ノ宮辺りに上陸して河内の豪族に滅せられそうになったのを熊野まで全力ダッシュで逃げてる」のは東海姫氏国の豪族でこれがのちの天武となります。「当時の九州の福岡周辺、山口県辺りの豪族というのは大陸と交易若しくは大陸由来の人々が支配してた」これ大和朝廷です。つまり高句麗、百済、新羅、伽耶、対馬、出雲の豪族が要職を占める連合国家です。それに倭国大乱の主役であった2つの銅鐸稲作国家、1つは日本海側からぐるっと東北を周り茨城あたりまでを勢力圏としていた「越」ともう1つは九州南部から瀬戸内海〜熊野近畿〜房総半島に至る太平洋側を勢力圏としていた「瀛(姫)」が統合支配されて大和朝廷に加わっていたわけです。「瀛(姫)」は野馬台詩(野馬臺詩、耶馬台詩、やばたいし、やまたいし)によれば東海姫氏国と書かれています。

明治維新後の史観は尊皇攘夷の基本思想であった江戸期のほぼ「新興宗教」國學の史観を元に組まれています。国学を大成させたのは朝鮮戦争で秀吉方についた高麗王国の豪族(主にキリシタン大名であるが)が敗戦後、日本の大名になり神道へ改易し「日本の大名となって」日本国学を起こし、天武創世の神道を改竄し「三位一体国家神道」に変えたもので、資金的なバックアップは高麗王国の王族の末裔、千利休を筆頭とする高麗人「海商」で、その代表が「住友」でした。本居宣長史観は天武(瀛(姫))と藤原(越)による大和朝廷「討伐」を隠蔽するために日本史観を改竄しました。隠蔽する理由は新興の高麗商人や明商人が「新しい日本人」として参画していくには「新撰姓氏録」に代表される農(士)氏中心の「氏族構造」とその「氏子制度」を根本から変える必要があったからです。日本の神社氏子構造は天武(瀛(姫))と藤原(越)による大和朝廷「討伐」による新政で組まれたものだからです。國學徒による「改竄」は周到なものでした。神話記述に関しては古事記、日本書紀などの原本が「存在しない」のに國學徒が写本の断片を掻き集め都合の悪い箇所は巧みに変えて「解釈提示」したのがそもそも現代の「古事記、日本書紀」学としての国学を形成してる。日本武尊による東征の箇所などが完全に反転されて書かれている。そもそも「日本」という概念が、天武により周政や道教から編み出されたものです。天武は東征どころか「東を引き連れて西の大和を討伐した」これが事実です。俺の史観は地域、地域に残された史跡、伝承を総合的に見て考古学記述を元にしたものですが国定史実と隔たりがあるのは「変」ですよね。日本史はいまだに国学解釈の影響を受けています。でもこれ江戸時代の歴史解釈とも「違う」んですよね。明治以降「本流」とされた史実だからです。


「越」と「瀛」という2つの稲作銅鐸国家の弥生末期の戦争が倭国大乱であり、越は長江文明と繋がりがある種族で、瀛は周との関係が深いですがさらに元を辿ると黄河文明と関係が深い。どちらも稲作文明で当時のアジアの「覇権文明」ですから、とても自然なことです。瀛族は「俺は中原の覇者の部族だ!」つまり周ですね?そういう自負がまあ本当かどうかは置いといてもあるわけです。天武天皇の諡号(死後身元を示す名前)を見てください。「天渟中原瀛真人天皇」中原の覇者、周王の治世を天意として受け継ぐ真実の人、天皇である」という意味ですこれ。

 春秋戦国時代、最後まで残って覇権を競っていたのが「晋・楚・斉・宋・燕・魯・鄭・呉・越・秦」そのうち姫姓を名乗るのが「晋・燕・魯・鄭・呉」で名乗らない大国がある「楚・斉・宋・越・秦」これらの多くは百越(長江文明)を継承する国なんです。倭国大乱はおよそ500年後、中原では大勢を決した「黄河文明と長江文明の大戦争」の名残であると考えるのは、島の立地から見ても実に自然な成り行きであると思います。アジア空白の4世紀この3000年以上も覇権を争っていた黄河文明の種族と長江文明の種族に最大の危機が訪れるんです。北方鮮卑族(匈奴、フン族でもいい)の大侵入です。その北方鮮卑族に追われた「黄河文明と長江文明」の末裔たちが朝鮮半島の先端にまで追われ、部族、種族を問わない「連合国家群」を形成する。これが「大和」です。「和」という言葉には3000年の重みがある。俺はそう考えています。3000年争い続けた2つの部族はこの北方騎馬民族に「悉く」駆逐される。駆逐する側の北方鮮卑族も新たな北方鮮卑族に駆逐される。そうした相剋の争いに疲弊した小国が集まって「連合国家群」を形成したんです。倭国大乱で争っていた日本列島の「越」と「瀛(姫)」も「連合国家群」へと参画していく、そうして北方鮮卑族の侵入から最も安全な場所に「多部族合議制」の大和朝廷を起こすんです。


瀛族は「俺は中原の覇者の部族だ!」つまり周ですね?そういう自負がまあ本当かどうかは置いといてもあるわけです。天武天皇の諡号(死後身元を示す名前)を見てください。「天渟中原瀛真人天皇」中原の覇者、周王の治世を天意として受け継ぐ真実の人、天皇である」という意味ですこれ。大和朝廷は北方鮮卑族の侵略で国を失った百済人に専横されていく、それに反旗を翻したのが「越」の藤原鎌足でした。鎌足は以前の合議制の大和を取り戻す為に思案します。そして「周の末裔を立てて天皇とし朝廷を再編しよう」と画策します。


黄河文明の種族の末裔である天武天皇が「周の治世を引き継ぐ」と名乗りを上げ、北方鮮卑族の国である唐や新羅との間に線引きし「日本」を建国する。彼が宰相に選んだのは長江文明の種族の末裔である越人、藤原氏でした。


日本建国です。


「日本」とは何か?もう一度、よく考えてください。

三種の神器に示されるように、この国は「3つの民の和の約定」を元に建国された。

2つの種族とは「黄河文明と長江文明」3つ目の部族とは?新興の鮮卑族なんです。


1.黄河文明と縄文人、周人に象徴される「古代種D2」

2.長江文明と古ツングース、越人に象徴される「古モンゴロイドO2b」

3.そして新たな渡来者としてその数を増やしていった扶余、鮮卑、匈奴を起源とする「新モンゴロイドO3」


3つの種族が「日の本」の下「対等であれ」これが日本の建国理念だと思います。

日本史が示すような三位一体律令制では無いんです。あれは國學史観により改竄された「国家神道」を正当化するための物でしかない。3つの種族がそれぞれにそれぞれの個性を保証される神社は「統制されない」氏子の自主に委ねられる。これが本来の考え方です。


『神社本庁に属さない神社』は、日光東照宮、気多神社、梨木神社、富岡八幡宮があるそうです。 そして神社本庁から離脱したのは、日光東照宮が1985年、気多神社が2010年、梨木神社が2013年、富岡八幡宮が2017年となっています。國學院大學は名前の通り「国学」を推奨する大学で、国学は江戸期に大成された新興宗教である「国家神道」に基づいて神主を育成し派遣している。三位一体律令制を拒む神社にはこれは「噛み合わない」。


天武天皇と藤原鎌足は百済人の大和皇統をたしなめ、北方モンゴロイドの新興国「唐と新羅」を国として認めつつも「私は周の治世を継承する」と名乗りを上げたのが「日本建国」そのものの「理」である。では「周の治世」とはどんなものでしょうか?


「インドの文明は紀元前6500年から絶えることなくつづいてきた。インドの古代文明は侵略者によって絶滅したのではなく、つねに発展し、その記録はヴェーダとして今日も残っている。」これは事実だ。しかしアーリア人は南下している。単に侵略したのではなく、融和したのだ。つまり現在に連なるインド文明は「インド古代種とアーリア人種」による融和文明である。が、侵入直後、インド古代種の一部はインド大陸をアーリア人に追われ「絶滅したのではなく」海洋に逃げ延びた。インド古代種は他の古代種同様「モンゴロイドでもコーカソイドでもネグロイドでもアーリア人でもない」男系Y染色体A〜Fの人々は現代のホモ・サピエンスほどの「個体差」が無かった。東に逃れたインド古代種は「日本列島」にまで到達している。西に逃れたインド古代種はエチオピア・イエメンに国家を建設した。シバ王国である。紀元前1046年中国に周を築いた姫姓を名乗る部族は、最初「巫女」的な女性の族長に率いられた部族で、海洋を渡り中国に上陸、巫女と別に政を司る為政者「后稷(こうしょく)」をたてた。つまり「北方侵入」が基本である中国史において異例の「南方渡来」の種族である「周」の古代漢民族はインド古代種なのではないか?「周」の開祖、后稷(こうしょく)は、周王朝の姫姓の祖先。中国の農業の神として信仰されている。姓は姫、諱は弃、号は稷。不窋の父。『史記』周本紀によれば、帝嚳の元妃(正妃)であった姜嫄が、野に出て巨人の足跡を踏んで妊娠し、1年して子を産んだ。姜嫄はその赤子を道に捨てたが牛馬が踏もうとせず、林に捨てようとしたがたまたま山林に人出が多かったため捨てられず、氷の上に捨てたが飛鳥が赤子を暖めたので、不思議に思って子を育てる事にした。弃と名づけられた。弃は棄と同じ意味の字である。『山海経』大荒西経によると、帝夋(帝嚳の異名とみなす説が有力)の子とされる。弃は成長すると、農耕を好み、麻や菽を植えて喜んだ。帝の舜に仕え、農師をつとめた。また后稷の官をつとめ、邰に封ぜられて、后稷と号した。「弃は成長すると、農耕を好み、麻や菽を植えて喜んだ。帝の舜に仕え、農師をつとめた。」これが周の治世の基本にある。「后稷」の官とは農事を司る官名で、これが諡号(し、おくりな)とされた。諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。ここにいくつかの符号がある。「后稷と周」「インド古代種の農耕文明」「旧約聖書で農耕を象徴するカインの存在」天武天皇の諡(し、おくりな)「天渟中原瀛真人天皇」瀛とは、沢、うみ、大海などの意味をもつ。天武天皇は天智皇統と異なり「姫姓」を即位前に名乗っていた。彼は天皇家に養子縁組で入った東海姫氏国つまり中原瀛真人「周王朝の縁戚」を名乗っていたのである。周人は元々赤髪の人達であったという言い伝えがある。天狗や鬼も赤髪であったという伝承がある。春秋戦国時代、周王室から分家した姬姓の諸国として呉・燕・晋・韓・魏・管・魯・鄭・衛・霍・虢・曹・蔡・虞・滕・随・韓・劉などが挙げられるが「僭称」の側面は否めない。ただ「姬姓の呼称」には理念継承の意志があり、姫姓を名乗った天武天皇が「実際に周王朝の血縁であるか?」はさしたる問題ではなく、その名乗りに明確な「理念継承の意志」があったことが重要なのである。周の理念とは「TAO(道)」を説く思想であった。周の継承とは「農耕里山文明」の継承であり、つまりは古代漢民族〜インド古代種に始まる南インド「農耕里山文明」の継承であり、ここで天武の建国とエチオピア帝国の建国が「完全に符合」する。そしてそれは「カインの誤解」へのサインである。


Tengu Sensimillia / African Simba JAHEAST MEDITATION Dubplate https://www.youtube.com/watch?v=pLDVkUlH-jE






 
 
 

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